私をヴェネチア・ビエンナーレに連れてって(仮)

展覧会の感想や気になったことを書き留めて、整理する場所として使います。

ひとは見たいものしか見ない

この前、場所の目録という展覧会で、河村るみさんの作品と浅井雅弘さんの作品をみて、ぐっときました。

るみさんの作品「ビュートレス」は、いずれ消えてしまう儚さの裏側に、論理的な強度を併せ持つ作品だと思いました。

ビュートレスは鑑賞者が参加することでできていく作品です。

鑑賞者は窓に映る景色をなぞるというルールに沿って街をなぞっていきますが、その結果は作家も鑑賞者も誰も予想できない景色として現れて、しかもどんどん変化していきます。

一人ひとりが、その人なりに正確になぞったはずの線が、積み重なっていくうちに全体でみるとバラバラでどこをなぞった線なのかわからなくなっていく。

それは、私たち個人が意図して行っている行為が、社会全体で見たときに意図しない結果を招くようでもあります。

認識や価値観の多様性、不確かさ、人と人の関係性といった不可視のものを、街の景色をなぞるという行為を通して、(参加者が意図しない形で)浮かびあがらせたところに、るみさんの作品の面白さがあると思いました。

様々な偶然の積み重ねでこの社会が形作られていること、個人の思い通りに社会を動かすことはできないということを改めて考えさせられました。

 

るみさんの作品をみたあと、浅井さんの作品に気づきました。(正確には、自分では気づけなくて教えてもらいました)

壁の汚れや跡といった、普段誰も目にとめないようなものを写真に撮って、また壁に貼るという作品でした。

目にとめないようなものを、目にとまらない形で展示する、二重の「目にとまらなさ」は、逆に目にとめない鑑賞者側の認識について、静かに問題提起をしているようで面白かったです。

私たちは結局見たいものしか見ようとしていないし、見たつもりになって見えてないものがたくさんあるし、見たいようにしか見ない。

逆に見たくないものが見えてしまったり、見たいものが見たいように見られない世界はどんな世界なのだろう。

そんなことを考えながら、もう一度ビュートレスに目を向けたのでした。