私をヴェネチア・ビエンナーレに連れてって(仮)

展覧会の感想や気になったことを書き留めて、整理する場所として使います。

ジャズ研の先輩

どうしたら目の前で起きていることを面白がることができるか、という考え方を教えてくれたのは、らくださんというジャズ研の先輩だった。

それと、楽しくない状況をどう楽しむか考えることはすごく面白い、ということも、らくださんから学んだ。

 

私は自分の思い通りにならないとすぐイライラしてヒステリックになる、友達ができない典型のような学生であったので、軽々といろんな事態を乗り越えていくらくださんがとてもうらやましかった。

らくださんはいつもふざけている先輩に見えたけど、なんでも自分が楽しくなるように考えることのできる人だったんだなぁ、と今ならよくわかる。

私が1年のとき、らくださんは4年生だったので、実質1年くらいしか関わっていない。らくださんは卒業後、大手企業に就職して、そのあと何年かして転職して、今は何をされているかわからないけど、たぶんずっと自分がやりたいことを追求して楽しく過ごされていると思う。

 

らくださんは面白い先輩だったので、弟子のように慕っている人が何人かいた。私はそういう弟子のような人に比べたら、そこまで深く関わったわけではなかった。

らくださんの何気ない発言やふるまいに接したのは、人生の中でほんの一瞬のことだったけど、今でもなぜかときどき思い出してははっとすることがある。

ほんの一瞬ふれただけの、大したことない一言や行動が、私の人生に何かしらじわじわと影響を与えているようなので、他人の人生も自分の人生も面白いなぁとおもう。

 

誰かに影響される。影響されてとった行動が、また別の何かに変わったり、新しい局面を生み出す。

人は、偶然の積み重ねでいろいろな人と出会い、関わりながら生きていくわけだけど、それはジャズセッションみたいなものだと思う。

 

そういえば、ジャズ研の別の先輩で、大森さんという先輩がいて、誰かをセッションに誘うときはいつも「会話しようぜ」と声をかけていた。 大森さんの楽器はピアノで、 すごく上手くて、本当になめらかに会話をするように自分の気分を演奏で表せる先輩だった。

会話も、セッションも、人の関係性も、もっといえば人生も、影響しあいながら意図せず流動的に形が変わるものなんだって、それも先輩から学んだことです。

 

 

 

図にして理解すること

今日山口さんと話していて、頭に浮かんできた図です。

わたしは人と話している時に、ブレイクスルーが起きやすいです。そして、一旦ブレイクスルーが発生すると頭の中に図がポンポン浮かんできます。

考えたい内容はたぶん何でもよくて、目の前に出されたものには向き合う、というスタンスなのだろうなと今日少しおもいました。 

(だからきっと、理不尽なことを見過ごせなかったり、人と対立してしまったり、自分が納得するまで考え続けるのを止められなかったりするんだろうなぁ)

 

今、アートやアーティストについて考えたいから考えてるというよりかは、偶然こういう仕事に就いて目の前に出てきたのでなるべく自分が興味を持てるように考えてるだけ、という感じなのかも。

働いていると周りの人に自然とシンクロしすぎて忘れてしまうけど、たぶんこっちが本来のわたしのスタンスだろうなぁ、などと思ったり。

わかってはいるけど、憑依したまま役が抜けないみたいなところがあるので、気を付けようと思います。

 

 とにかく、今日は図がたくさん収獲できてよかったです。まるでテトリスが一気に崩せたような爽快感ですっきりしました。ありがとうございました。

わたしはわたしのやり方でこれからも考えたらいいし、他の人がすでにやってることならその人に突き詰めてもらえばいいし、 得意な人が得意なことをしていたら良いと思う。

動機は一つじゃなくていいし、正規のルートじゃない人が混じってた方が、なんとなく意図しない展開が生まれやすくていいんじゃないかな。

あとは、やりたいことをやらせてもらえたら、なるべくお給料+αくらいで還元していたいです。

なんだかまとまりのない読みにくい文章ですが、今の気持ちです。

 
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ラブホテル

この前、アッセンブリッジナゴヤに行って、城戸保さんと徳重道朗さんのアーティストトークを聞きました。

徳重さんは今年のファンデナゴヤでお世話になった方でしたが、事務的なこと以外はお話したことがなかったので、どんなことを考えている人なのか、少し知ることができてよかったです。

今回初めて知ったのですが、作品で使っている人形などはリサイクルショップで見つけてくるとのことでした。

その話を聞いて、今になってやっと、ファンデナゴヤの時に施設の長机が作品の一部として使われたことに納得できました。

先の記事に書いた浅井雅弘さんの作品や、今月初旬の「若手作家刺激プログラムmotion#3」での長瀬崇裕さんの作品もそうだったのですが、わたしは人が見過ごしてしまいそうものや、見向きもしないようなものをすくい上げて、ひねりを入れながら新しい見方を提示するという展開に惹かれるタイプです。

わざわざ人が見向きもしないような、価値がないと判断するようなものに着目して、新しい意味を見つけようとしたり、新しい解釈をしようとしたりすることは、結果的に意味や解釈が見つからなかったとしてもとても創造的なことだし、今の世の中で大事なことだと思います。

 

トークの後に、徳重さんのおすすめスポットを見るため、みんなで散歩しました。

あいにく徳重さんが見せたかったものは見られなかったのですが、すごく良い感じのラブホテルをみることができました。

わたしはラブホテルをみるのが結構好きなので楽しかったです。

ラブホテルは、よく見ると作りや照明が安っぽかったり、意外と庶民的なサービスをしていたりするのがいいなと思います。

以前、「無料でお好きなシャンプー選び放題!」みたいなサービスをしているラブホがあって、表に従業員の手作りっぽい看板が出ていて、すごく良いなぁと思った記憶があります。

ちなみにそのシャンプーのラインナップは、Tsubakiパンテーンなど、ドラッグストアで普通に買うことのできる「ちょっと良いシャンプー」でした。

「ちょっと良いシャンプーの選び放題」というサービスを考えた従業員(経営者の可能性もあるけど)の感覚は、自分とさほど変わりない気がします。

そういう人がラブホテルを作ってるんだなぁと思うと、ラブホテルが誰とも顔を合わせない仕組みを採用していることと対比されて、なぜかぐっときます。

 

わたしの中では、ラブホテルをみるのと同じ感覚で、団地やニュータウンをみるのも好きです。

団地は一見同じ形の同じ仕様の建物がいくつも供給されているだけのようですが、よく見るとそこに住んでいる人の手によって、生活をよりよくするためのいろいろな・ささやかな工夫が施されています。

(例えば、ベランダの鉢植えとか、ごみ捨て場の手作り感あふれる表示、誰かが寄付したっぽいカラスよけのネットなど)

通りがかりの人が見たら同じ建物が並んでるだけにしかみえないけど、たぶん住んでいる人にとっては1棟ずつ印象の異なる建物として、全く違う景色が見えているんじゃないかと思います。

団地という無機質の象徴みたいな建物と対比して、人の生活感が滲み出ている(滲み出てしまう)のはなぜかぐっときます。

こういうことを考えて何になるかと言われれば、何にもならないし、今のところ何にも使えないと思うけど、でも考えるのは楽しいです。

 

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ひとは見たいものしか見ない

この前、場所の目録という展覧会で、河村るみさんの作品と浅井雅弘さんの作品をみて、ぐっときました。

るみさんの作品「ビュートレス」は、いずれ消えてしまう儚さの裏側に、論理的な強度を併せ持つ作品だと思いました。

ビュートレスは鑑賞者が参加することでできていく作品です。

鑑賞者は窓に映る景色をなぞるというルールに沿って街をなぞっていきますが、その結果は作家も鑑賞者も誰も予想できない景色として現れて、しかもどんどん変化していきます。

一人ひとりが、その人なりに正確になぞったはずの線が、積み重なっていくうちに全体でみるとバラバラでどこをなぞった線なのかわからなくなっていく。

それは、私たち個人が意図して行っている行為が、社会全体で見たときに意図しない結果を招くようでもあります。

認識や価値観の多様性、不確かさ、人と人の関係性といった不可視のものを、街の景色をなぞるという行為を通して、(参加者が意図しない形で)浮かびあがらせたところに、るみさんの作品の面白さがあると思いました。

様々な偶然の積み重ねでこの社会が形作られていること、個人の思い通りに社会を動かすことはできないということを改めて考えさせられました。

 

るみさんの作品をみたあと、浅井さんの作品に気づきました。(正確には、自分では気づけなくて教えてもらいました)

壁の汚れや跡といった、普段誰も目にとめないようなものを写真に撮って、また壁に貼るという作品でした。

目にとめないようなものを、目にとまらない形で展示する、二重の「目にとまらなさ」は、逆に目にとめない鑑賞者側の認識について、静かに問題提起をしているようで面白かったです。

私たちは結局見たいものしか見ようとしていないし、見たつもりになって見えてないものがたくさんあるし、見たいようにしか見ない。

逆に見たくないものが見えてしまったり、見たいものが見たいように見られない世界はどんな世界なのだろう。

そんなことを考えながら、もう一度ビュートレスに目を向けたのでした。