私をヴェネチア・ビエンナーレに連れてって(仮)

展覧会の感想や気になったことを書き留めて、整理する場所として使います。

ラブホテル

この前、アッセンブリッジナゴヤに行って、城戸保さんと徳重道朗さんのアーティストトークを聞きました。

徳重さんは今年のファンデナゴヤでお世話になった方でしたが、事務的なこと以外はお話したことがなかったので、どんなことを考えている人なのか、少し知ることができてよかったです。

今回初めて知ったのですが、作品で使っている人形などはリサイクルショップで見つけてくるとのことでした。

その話を聞いて、今になってやっと、ファンデナゴヤの時に施設の長机が作品の一部として使われたことに納得できました。

先の記事に書いた浅井雅弘さんの作品や、今月初旬の「若手作家刺激プログラムmotion#3」での長瀬崇裕さんの作品もそうだったのですが、わたしは人が見過ごしてしまいそうものや、見向きもしないようなものをすくい上げて、ひねりを入れながら新しい見方を提示するという展開に惹かれるタイプです。

わざわざ人が見向きもしないような、価値がないと判断するようなものに着目して、新しい意味を見つけようとしたり、新しい解釈をしようとしたりすることは、結果的に意味や解釈が見つからなかったとしてもとても創造的なことだし、今の世の中で大事なことだと思います。

 

トークの後に、徳重さんのおすすめスポットを見るため、みんなで散歩しました。

あいにく徳重さんが見せたかったものは見られなかったのですが、すごく良い感じのラブホテルをみることができました。

わたしはラブホテルをみるのが結構好きなので楽しかったです。

ラブホテルは、よく見ると作りや照明が安っぽかったり、意外と庶民的なサービスをしていたりするのがいいなと思います。

以前、「無料でお好きなシャンプー選び放題!」みたいなサービスをしているラブホがあって、表に従業員の手作りっぽい看板が出ていて、すごく良いなぁと思った記憶があります。

ちなみにそのシャンプーのラインナップは、Tsubakiパンテーンなど、ドラッグストアで普通に買うことのできる「ちょっと良いシャンプー」でした。

「ちょっと良いシャンプーの選び放題」というサービスを考えた従業員(経営者の可能性もあるけど)の感覚は、自分とさほど変わりない気がします。

そういう人がラブホテルを作ってるんだなぁと思うと、ラブホテルが誰とも顔を合わせない仕組みを採用していることと対比されて、なぜかぐっときます。

 

わたしの中では、ラブホテルをみるのと同じ感覚で、団地やニュータウンをみるのも好きです。

団地は一見同じ形の同じ仕様の建物がいくつも供給されているだけのようですが、よく見るとそこに住んでいる人の手によって、生活をよりよくするためのいろいろな・ささやかな工夫が施されています。

(例えば、ベランダの鉢植えとか、ごみ捨て場の手作り感あふれる表示、誰かが寄付したっぽいカラスよけのネットなど)

通りがかりの人が見たら同じ建物が並んでるだけにしかみえないけど、たぶん住んでいる人にとっては1棟ずつ印象の異なる建物として、全く違う景色が見えているんじゃないかと思います。

団地という無機質の象徴みたいな建物と対比して、人の生活感が滲み出ている(滲み出てしまう)のはなぜかぐっときます。

こういうことを考えて何になるかと言われれば、何にもならないし、今のところ何にも使えないと思うけど、でも考えるのは楽しいです。

 

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ひとは見たいものしか見ない

この前、場所の目録という展覧会で、河村るみさんの作品と浅井雅弘さんの作品をみて、ぐっときました。

るみさんの作品「ビュートレス」は、いずれ消えてしまう儚さの裏側に、論理的な強度を併せ持つ作品だと思いました。

ビュートレスは鑑賞者が参加することでできていく作品です。

鑑賞者は窓に映る景色をなぞるというルールに沿って街をなぞっていきますが、その結果は作家も鑑賞者も誰も予想できない景色として現れて、しかもどんどん変化していきます。

一人ひとりが、その人なりに正確になぞったはずの線が、積み重なっていくうちに全体でみるとバラバラでどこをなぞった線なのかわからなくなっていく。

それは、私たち個人が意図して行っている行為が、社会全体で見たときに意図しない結果を招くようでもあります。

認識や価値観の多様性、不確かさ、人と人の関係性といった不可視のものを、街の景色をなぞるという行為を通して、(参加者が意図しない形で)浮かびあがらせたところに、るみさんの作品の面白さがあると思いました。

様々な偶然の積み重ねでこの社会が形作られていること、個人の思い通りに社会を動かすことはできないということを改めて考えさせられました。

 

るみさんの作品をみたあと、浅井さんの作品に気づきました。(正確には、自分では気づけなくて教えてもらいました)

壁の汚れや跡といった、普段誰も目にとめないようなものを写真に撮って、また壁に貼るという作品でした。

目にとめないようなものを、目にとまらない形で展示する、二重の「目にとまらなさ」は、逆に目にとめない鑑賞者側の認識について、静かに問題提起をしているようで面白かったです。

私たちは結局見たいものしか見ようとしていないし、見たつもりになって見えてないものがたくさんあるし、見たいようにしか見ない。

逆に見たくないものが見えてしまったり、見たいものが見たいように見られない世界はどんな世界なのだろう。

そんなことを考えながら、もう一度ビュートレスに目を向けたのでした。